IQ246〜華麗なる事件簿〜 感想&妄想解説

IQ246~華麗なる事件簿~
かなりこっぴどく叩かれているようなので、見かねて投稿しました。

久々にSFの醍醐味を堪能した気がしてるのは、僕だけでしょうか。
まさか、ただの推理ドラマとか思ってないですよね? ましてや、正統派ミステリーなんかじゃありません。痛快な冒険活劇でありながら、実は深~い真理に迫るSFの傑作だったのではなかろうかと、僕は勝手に評価してる訳なんです。

IQが200も300もある人には、我々とは全く違う世界が見えているのであり、それは我々にとって想像することすら許されないような世界なんでしょうね。さながら、2次元世界の住人が空間というものの概念を知り得ないように。ミドリムシは人間が何を見聞し何を考えているかなんてお構い無しに生きてるでしょ? 同じように、もし仮に人類を遥かに凌ぐ高度な知的生命体が存在するとして、我々には彼らの考えなんて、理解はおろか、想像も及ばないんですよ。

実際にそんなモノがいるとは思えないって?
 ...だからSFなんですってば👽💦

同じテーマは、相手が宇宙人でも、意思を持ってしまったスーパーコンピュータでも成り立ちます。あるいは、超能力者なんてのも、この範疇に入るでしょう。小松左京や筒井康隆の著作を待たずとも、「古典」の時代から繰り返し描かれてきたテーマなんです。

今まで我が物顔で唯一無二の王者と思い込み地球上に君臨してきた我々人類が、及びもつかない敵に対峙した時に言い知れぬ恐怖に怯え、あるいは排斥しようと無駄なあがきを試みる、なんてプロットが定番。その様が滑稽であればあるほど、人間という儚い生命が愛おしくなってくる。そして、大抵の無力なヒーローは盾突くんです~「何だか分かんないけど許せない。ニンゲンを舐めんなよ!」って。最後に勝つのは理屈でも知性でも何でもなくて、生身の人間のド根性だったりするんです。本作の中では、太鳳ちゃん演じる護衛係が立派にその役目を果たしてましたね。

一番怖いのは、すぐ隣りにいるかもしれない人の姿をした未知の知的生命体なんです。何しろ、「ただの天才」なのか、我々を滅ぼそうと企てている新人類なのか、見かけだけじゃ判んない。だから中世の魔女狩りみたいな過ちを犯しちゃう。それで、法門寺家も代々国家権力から狙われてきたんでしょうね。

はい。
と、まあ総論として背景を語ってみた訳ですが、では、法門寺沙羅駆とは結局ナニ者だったんでしょう? ただの天才だったのか、あるいは... 

ネットの批判の中には伏線が回収されてないって声が多かったですね。これは続編の布石って考えていいんじゃないですか?
それからマリア-Tの存在。さんざん思わせぶりに引っ張った挙げ句、何だあの陳腐なオチは、なんて意地悪な見立てが多かったようです。

あくまで、僕の予想ですが、
法門寺沙羅駆=マリア-T 同一人物説
——あると思います!

もしも、スペシャルや劇場版か次シーズンなど続編が出来たとして、予想が当たってたりしたらネタバレになっちゃうし、逆に見当違いだったら恥ずかしいので、まあ暇な凡人の戯言とでも思ってお聞き下さい。

マリア-Tの正体は、ズバリ、「イマジナリーコンパニオン」じゃないかと思ってました。3話あたりからずっと。つまり、法門寺沙羅駆の作り上げた妄想にすぎないのではないかと。

イマジナリーコンパニオン、あるいはイマジナリーフレンドとも呼ばれる、いわゆる空想の友人。はじめ沙羅駆は暇で暇でしょうがなくて独り語りをするうち、自分だけのお友達を内なる世界に作り上げるんです。もちろん、他人からは見えません。おそらく、容姿も沙羅駆の理想の女性だったのでしょう。全身整形したからといって、自分が創り出した完璧な美貌が見抜けないはずはありません。

IQだって300どころか、いくらだって競り上げられます。なんせ、架空の存在なんですから。だからといって、あんまりかけ離れ過ぎるとIQ246の自分と話が合わなくなっちゃいますから、暇つぶしの相手としたらIQ300くらいで丁度良いんでしょうか、凡人の僕にはさっぱり見当もつきませんけどね。

精神医学では、イマジナリーコンパニオンが人格を持つようになるケースも稀ではないと説かれます。やがて主人格自身にもコントロールが効かず言動となって表に現れると、多重人格者(解離性同一性障害)となる訳です。この時点では別段、姿形に変化が見られる訳ではないので、法門寺沙羅駆が突然、「私はマリアじゃあー」って叫ぶ訳ですから、賢正に「若様!お気をしっかり」って取り抑えられておしまいなんでしょうが、、、

ここからがSFの真骨頂✨

マリア-T、理想の彼女は、意思を持って語りかけてくるようになります。そりゃ、「私の愛した脳細胞」になる訳だ。だってマリアさんや、アンタは沙羅駆の脳ミソが産み出した空想の産物なんだからね。そして遂に、意思だけではなく肉体を持つようになるんです。

Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

今、突拍子もない事をシレッと言ったと思いましたか? 別に、SFの世界では突拍子のない事でも何でもないんです~。
そんなに都合良く実体化するなんて事があるか、なんてツッコミも聞こえてきそうですが、そもそも、あり得ない事がもしあったらという前提で描かれるのがSFなんです。

だって、そうとでも考えなきゃ納得いかない事ばかりですよ。ところが、沙羅駆の分身っていう補助線を引いて考えると、たちどころに全ての合点が行く。第一にマリア-Tってば、生活感がなさ過ぎる。だいたい何食べて暮らしてるんだ?アリスの棘の明日美先生みたいに復讐の権化と化したキャラでさえ、おいちゃんの作ってくれる不味い料理食べて生きてたし。

それに、あながち虚構とばかり言い切れないかも知れません。別人格が実体化する事は絶対にないなんて、いったい誰が断言できるんでしょうか? 無いことを証明するのって、実はとても難しいんです。非科学的だと嘲笑されている事象のうちの何割かは、現代の科学が追い付けていないだけで、実は真実だったりするのかも判りません。

ともあれ、沙羅駆の中の別人格は彼の肉体を離れ、独立して行動するようになってしまいました。一緒に仲良く碁を打ってるうちはまだ良かったんですが、ところが困った事に、このイマジナリー子ちゃんは、たいそうな"おイタ"だったんですね。ネットに入り込んで殺人指南のメールなんか送り始めちゃったりする訳ですよ。なまじIQが高いだけに始末が悪い。いくら実体が別にあるとはいえ、沙羅駆本人が犯罪に手を染めているのと変わりはありませんからね。

最終回の謎を呼んだロシアン毒薬カプセルの場面、あれは僕なりに解釈すると、「私に人間の理性が残っているうちに殺してくれー」って感じだったんじゃないでしょうか。山月記でいえば、李徴が自分の中にある人間の心で、虎に成り果てた兇悪な己に抗っているようなものです。もはや自分でもコントロールできなくなってしまった自分の中の醜い醜い欲求が、これ以上人の道を踏み外してしまうのなら、いっそこの世から消えて無くなってしまえと。

結局、このドラマのテーマはインサイド・アウト~自分の中の別人格とどう向き合っていくかなんです。どうです?ドキッとしませんか?
イマジナリーナントカだの多重人格だの、そんな極端な例まではいかずとも、誰だって自分の心の中では、ヨロコビちゃんが踊り、カナシミさんがベソかいてるんです。時にはイカリ君が暴れ出す事もあるでしょう。みんながお互いを補い合い、支え合って一人の人間は形成されていくのです。

法門寺沙羅駆は、最後には一緒に生きる道を選んだのでしょう。どんなに醜悪至極なサイコパスだろうと自分の心の一部であると認める事は辛かったと思います。「生きる意味、生かす意味を分からんお前ではあるまい」とは、賢正に向けた言葉のようでいて、実は自分自身に言い聞かせた覚悟と捉えるべきかもしれません。

マリア-Tの首にかけられたヘンテコな首輪も、SFの小道具って考えると全然違和感ないでしょう? 人は誰だって心の中のある部分には鎖をかけながら、他者との関係をより良くしていくために一所懸命、踏ん張りながら必死で生きてるんです。でも現実には、そんなドラえもんのヒミツ道具めいたものは首に掛けられないですよね? だからこそ、人は愚かで美しいんじゃないでしょうか。

ちなみに法門寺沙羅駆の名前にも謳われている沙羅の花は、盛者必衰の象徴なんです。代々継がれてきた法門寺家の繁栄を絶やさぬためにも、若! ここはひとつ、早くお世継ぎを😜

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